第1回では、「根白石のお米で何かできないか」という何気ない会話から、KAMURIコミュニティプロジェクトが動き始めた頃を振り返りました。
今回は、そのアイデアが少しずつ形になっていった時期のお話です。
当時の泉西部地域は、コロナ禍の影響もあり地域活動が停滞していた時期でした。
そんな中で地域を見つめ直し、人と出会い、少しずつ活動の輪を広げていったことで、これまで見えていなかった地域の魅力やつながりも見えてきます。
時さんの記憶をたどりながら、当時の様子を振り返ります。
コロナ禍で止まっていた地域の時間
いま振り返ると、KAMURIが動き始めた頃の泉西部は、決して人と人との交流が活発な状況ではありませんでした。
コロナ禍の影響もあり、地域活動は停滞。新しく住み始めた人と地域住民が接点を持つ機会も少なく、「同じ地域に住んでいるけれど、顔を合わせる機会がない」という状況が続いていました。
そんな当時の空気感について、時さんは次のように振り返ります。

当時の空気はコロナ禍で全く動いておらず、とても閉塞感が漂う状況でした。特に高齢の方が多いため、コロナにはとても敏感になっており、「コロナになった人が出た」という噂が広まるだけで村八分のような状態になってしまう雰囲気がありました。
そういう状況でしたので、新規住民との交流は全くなく、新規住民も地域との交流がないまま生活が始まり、そのままずるずると何もないまま、地域の人とすれ違っても軽い挨拶だけで終わってしまう時期でした。
また、川向地区はお寺の場所から少し離れていることもあり、人が増えていることは分かっていましたが、どんな人が住んでいるのかが全く分からないまま私もお寺にいました。
そんな中で地域交流を図った当時の市民センターの堀田館長と、職員だった木村さんには本当に感謝しています。

他にも何かやろうとする人はいましたが、結局は単体の動きで終わってしまい、小規模な取り組みが出ては消えていくような感じでした。
地域の農家さんも毎年同じように農業を続けており、農家としての誇りは持っていたかもしれませんが、外部へのアピールはほとんどありませんでした。
西部地域でも地域の長老方が動いていましたが、お寺の行事はお寺、神社の行事は神社、泉ヶ岳の動きは森林組合というように、それぞれの住み分けがはっきりしており、点と点の関係でしかありませんでした。
一緒にやろうとか、組み合わせてやろうという考えはほとんどありませんでした。
例えば、根白石と福岡で何かやろうとか、根白石と実沢で何かやろうという話もほとんど出てきませんでしたし、やろうという思いもありませんでした。
それぞれの地域は泉市よりもさらに古い歴史を持つ地域であり、昔から独立した部落という意識もあったため、地域ごとのプライドも大きかったのかもしれません。
そういった状況でしたので、地域のものにスポットライトを当て、さまざまな商品を一堂に集め、若い人向けのイベントを開催したことは、地域としては画期的で、新しい風を吹き込むことができたのかなと思います。
当時の様子は”毎日のように顔を合わせるのが当たり前だった”
地域全体には停滞した空気もありましたが、一方でKAMURIのメンバーたちは毎日のように集まり、活動について話し合っていました。
イベントの準備はもちろんですが、それ以上に「面白そうだからやってみよう」という空気が強かったそうです。
今振り返っても、この頃の時間は特別なものだったといいます。
当時はみんなが楽しく、やる気にあふれていたので、毎日のように顔を合わせて話し合いをしていました。
そこでよく出ていたのが、「毎日顔を合わせるのは学校みたいだね」と「KAMURIメンバーは最強だね」という言葉でした。

仕事で毎日顔を合わせる方もいますが、友達同士で楽しみながらだべる感覚で打ち合わせを重ねていくのは、本当に学生時代に戻ったような気持ちでした。
毎日のように会っていても話題は尽きず、本当に楽しい毎日でした。
また、「KAMURIメンバーは最強だね」という言葉も、決して大げさではありませんでした。
困ったことがあれば誰かがすぐに解決してしまうことばかりで、メンバーそれぞれの趣味や特技、経験、人脈をフルに生かしながら、コメフェスというイベントはもちろん、KAMURIコミュニティプロジェクトという団体を運営できているのだと思います。
当時よく話していたことはそんなところです。
あとはアイデアがどんどん出てきたので、そのアイデアをノリでどんどん膨らませていくような話が多かったです。
地域を回ると、思わぬつながりが見えてきた
コメフェスの準備が具体的に動き始めると、地域の農家や商店、さまざまな立場の人たちとの出会いも増えていきました。
当初は不安もあったそうですが、実際に話をしてみると、多くの人が興味を持ち、協力してくれたといいます。
その過程で、地域の中にある人と人とのつながりも見えてきました。
コメフェスを行うにあたり、お米を題材として使っていいのかという問題がありました。
というのも、当時は個人でお米を販売している方が少なく、農家さんは農協へ出荷していたからです。
「農協さんの許可をいただかないと難しいのではないか」
「農協さんの許可をいただいたとしても、イベントでお米を販売してくれる人がいなければイベントが成り立たない。突発的な私たちの想いを受け入れて、お米を販売してくれる人がいるのだろうか」
という心配事がありました。
そこで、市民センターの館長さんから元農協職員で農家をやっている方をご紹介いただきました。
その方にいろいろ相談に乗っていただき、農協さんとの橋渡しや、個人で販売している農家さんを紹介していただきました。
その方も、個人でお米を販売している方も「面白いイベントだね」と言ってくださり、企画は順調に進んでいきました。
お店とのやり取りは、ゆかさんに担当していただいていました。
おもしろ市で知り合った方や、個人的な友人などにも声を掛けていただき、皆さん「楽しそうだね」と言ってくださり、出店者も次々と決まっていきました。
当時は100%根白石のお米を使っていただくことにこだわっていました。

お声掛けしたおにぎり屋さんの中には、別の地域で自分の田んぼを持ちながら農業をされている方もいましたが、私たちの想いに共感してくださり、自分たちのお米ではなく、わざわざ根白石のお米を購入しておにぎりを作ってくださいました。
また、米粉を希望された方にも根白石のお米を使った米粉を使っていただくため、メンバーで農業園芸センターに根白石のお米を持ち込み、そこにあった米粉にしてくれる機械を使って丸一日かけて製粉しました。
その後、市民センターで各出店者用に計量し、配布しました。
「この地域って面白いな」と感じた瞬間
活動を進める中で見えてきたのは、お米やイベントだけではありませんでした。
地域の中で当たり前のように続いていた人とのつながりや縁の深さも、時さんにとって大きな発見だったそうです。
地域の人の縁は全部つながっているんだな、ということです。
先ほど書いた元農協職員の方ですが、当時は分かりませんでしたが、私が中学校時代に仲良くしていた後輩のお父さんだったことが、3年後くらいに分かりました。
後輩のお父さんにはお会いする機会もなかったので、とても驚きました。
また、個人農家さんも弟の同級生のご家庭でしたし、連合町内会長も私の同級生のお父さんでした。
役所に申請や相談で行った際も、対応してくれた方がゆかさんのお父さんの知り合いだったり、ゆかさん自身の知り合いだったりしました。
どこへ行ってもつながりがあり、地域の縁ってすごいなと思いました。
私はお寺の檀家さんとのつながりが多いので、地域の人を大体知っているつもりでいました。
しかし、他のお寺の檀家さんについては全く分からず、泉西部地域という広いエリアで見ると、自分は完全に井の中の蛙だったことを知る機会になりました。
ただ、そのおかげでこれまで知らなかった方々と知り合うことができ、活動の幅や規模拡大のきっかけにもなりました。
今では大変ありがたく感じています。
順調そうに見えて、大変なこともあった
今振り返ると楽しそうなエピソードも多く見えますが、もちろん順調なことばかりではありませんでした。
地域ならではの人間関係、スタッフ集め、イベント準備、そして個人的な出来事。
さまざまなことが重なる中で、コメフェス開催へ向けて動いていたそうです。
大変だったことがいくつかあります。
まずは地域の人間関係です。
地域の人間関係が密なため、様々な情報がストレートに入ってくることもあります。
「あの人はこう言っているけど、この人は違う方向の話をしている」
ということもあり、それぞれ地域への想いも強いため、私たちがどう動くべきかについては、メンバーや市民センターの館長さんと話し合いながら決めていきました。
次に大変だったのは、準備や当日に動くスタッフを集めることでした。
相談に乗ってくれる方やアドバイスをくれる方は、これまで地域を引っ張ってきた方が多く、少し高齢だったため、イベントスタッフとしてお願いすることができませんでした。
また、コロナ禍で若い世代のコミュニティもほとんど動いておらず、スタッフ集めは本当に大変でした。
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特に大変だったのが前日準備です。
当日スタッフは皆でお願いして回り、何とかギリギリ集まりましたが、前日の準備は想像以上に大変で、メンバーだけで朝7時過ぎから夜9時過ぎまで作業をしていました。
今でも前日準備に人を集めることには苦労していますが、当時は本当に終わらないのではないかと思っていました。
会場のブースの仕切りや駐車場のライン引きは特に大変で、暗くなってからも車のライトを照らしながら、3人だけで作業を続けていました。
最後に大変だったのは、個人的な話になりますが、自分自身の立ち回りです。
私は当時いくつかの団体に所属していました。
コメフェスをやろうと動き始めた頃は、まだオンライン会議が多く、集まりもほとんどなかったため、イベント開催に向けて全力で動くことができました。
しかし、コロナが落ち着き始めると会議が対面になり、多くの場面で集まる機会も増え、時間の調整が難しくなってきました。
さらに、コメフェスを初めて開催した年は、私自身にとっても気持ちの浮き沈みが大きい年でした。
4月に第三子が誕生し、7月にはお寺の祖母が亡くなりました。
特に祖母が亡くなったことは私にとって大きな出来事でした。
葬儀の準備や弔問の方への対応、葬儀後のさまざまなやることもあり、正直コメフェスどころではない状態でした。
住職関係の方々の弔問も非常に多く、たくさんの方に焼香やお花を頂戴し、まさにてんやわんやでした。
そのような状況の中で、コメビールの仕込みやイベント準備の手続きなども進めていたので、今振り返ると自分なりによく頑張ったなと思います。
今も忘れられない風景
活動が形になり、コメフェスが開催されたあとも、当時の出来事は今なお強く記憶に残っているそうです。
人との出会い、感謝を伝えた瞬間、そして活動を記録してくれた人たち。
最後に、時さんが今も忘れられない風景について振り返ります。

コメフェスが終わり、後片付けもすべて終えた後に、高長さんへみんなで伺い、高長の高橋長也さんに挨拶に行ったことが忘れられない思い出としてあります。
高橋長也さんは、これまで多くの地域行事や地域コミュニティに携わってきた方で、地域にとって欠かすことのできない存在です。
その方に団体立ち上げからイベント開催まで、多くの相談に乗っていただきました。
物品の借用、ビールの販売、協賛、チラシやポスターの掲示・配布など、本当にさまざまな形で支えていただきました。
第一回コメフェスが終わった後、「高長さんに挨拶に行こう」という話になり、メンバー全員でお店へ伺いました。
そして長也さんにみんなで頭を下げて「ありがとうございました!」と伝えたあの場面は、今でも強く印象に残っています。
他にもたくさんありますが、「一番印象に残っている出来事は?」と聞かれたら、個人的にはこの場面です。
【一体感】【達成感】【感謝を伝えられたこと】
そのすべてが詰まった出来事として、今でも思い出に残っています。
また、他にもたくさんありますが、ミヤギテレビさんに密着取材をしていただいたことも強く記憶に残っています。
まだ何の成果も出ておらず、何をしようか悩んでいる段階から密着取材をしたいと言われ、正直「え?いいのかな?」と思っていました。
ことあるごとに取材に来ていただき、映像撮影やメンバーへのインタビューなどを行っていただきました。
コメフェス当日も忙しい中で取材していただきました。
後日、その様子が放送されると反響は想像以上に大きく、一生懸命頑張ってきたことが報われたような気がしました。
また、当時は写真を撮って記録に残すという意識があまりありませんでした。
そのため、取材映像として当時の様子が残ったことは、今振り返るととてもありがたいことだったと思います。
ですので、当時の取材風景や、カメラがその時々を記録している光景は、今でも強く印象に残っています。

