恩賜郷蔵~西田中に佇む謎の蔵を探る~

話題

泉ウエスト自然植物系担当の鎌田です。先日IZUMIWESTの定例会に参加した私に一枚の紙が渡されました。

白黒で印刷されたその紙には「恩賜郷倉」なるものの記事、よく見てみると妙に見覚えが。

「これ、消防団が焼き鳥焼くためのU字溝おいてる住吉神社の奥の蔵だ!」

恩賜郷倉(おんしごうくら)というなんとも厳しい名前がついていたとは、興味を持った私は「この記事私書きます!」と、その日から調査を開始。

【恩賜郷倉】(おんしごうそう・おんしごうくら※地方によって複数よ呼び方がある)

恩賜郷蔵の歴史

東北には壮絶な飢饉の歴史があります。1800年代頃は品種改良も進んでいなかったイネは寒さや病害虫に今ほど強くなく、冷夏や長雨、大干ばつの折にものすごい餓死者を出すほどの飢饉に見舞われていました。

恩賜郷蔵とは、昭和9年(西暦1934年)に時の昭和天皇が冷害による凶作に備える為に配分された御下賜金を基本に建てた穀物倉庫で、凶作の時に生産者が食べる分(飯米)を現物で貯蔵して置くことを目的に設置されました。

建設希望町村はかなり多く宮城に2市200町村あった当時、2市190町村が希望し、合計828棟建設されたそうです。現在の泉区西部にあたる根白石村だけでも6棟建てられ現存するのは1棟のみとなっています。

凶作となれば米価はあがって、他の地方から米を運搬してくることも難しい時代に金銭で積み立てて置き、市場で買って来ることは現実的ではありませんでした。

このために生産地に生産者が食べる米(生産物)を貯蔵して置くことが必要だったのです。

以上がサラッと調べた情報で、天皇陛下から賜ったから「恩賜」とついているんですね。

恩賜郷倉はどう使われてきたのか?

ここからは住吉神社の近くに住む友人から直に聞いてきた地元の人は恩賜郷倉をどう使っていたのかの証言です。

証言1:「うちのじいさんは単に郷倉(ごうそう)と言っていました。」

(ごうくら)と渡された資料に書いてありましたが、よくよく考えると音訓読みだから「ごうそう」と読むのが正しいような気もしますが「ごうくら」との記載もあります。

証言2:「米を借りて返すの繰り返し」

出来秋には潤沢に飯米があってよいが、新米が出る前には(端境期)飯米が枯渇する事もあり、そのような場合には郷倉から借りて食べて、出来秋には利子をつけて新穀で返すとのこと。

家に貯蔵しておけば鼠に食われたり目減りしていくけど、食べるときに借りるのは有利だったようです。米相場が上がる時に借りて安い新米で返すので、その点でも有利と言えます。

証言3:「小学生の時には町内会の倉庫だと思っていた」

現在の立地が住吉台神社境内で西田中生活センター(集会所)の横なので、お祭りのときに視界の端にはいつもあったけど、近年手書きの説明書きが設置されて他の地区のものは現存しないと知ったそうな。改築工事の際には真鍮製の看板が見つかった事があったとか。

実際に郷倉の中を見学してみると…?

調べを進めると、現在郷倉は西田中の消防分団長でもある相澤淳一さんが鍵を管理しているとのことで、知人を通じて郷倉の中を見学させていただいた。

住吉台にお住まいのかたはご存知「住吉神社」、その左手側に・・・・・。

そこにあるのが恩賜郷蔵です。

郷倉の特徴

宮城県の規定で菊形の採光窓が恩賜郷倉に採用されているので見分けに使えます。

ほどんどの材料は現地のものを使って建てられています。

恩賜郷蔵の特徴 菊形の採光窓

郷倉の扉

外側は木製の引戸で中に金網入の戸が入っている2重になっていて意外にも木材はそんなに古さを感じさせない。

金物でビスが使われていましたが、頭がマイナスで古さを感じさせます。

内部の様子

町内会の倉庫として使われるようになってから棚やハシゴなどが取り付けられたようです、以前はがらんどうで、宮城県の標準的な郷倉の規定によれば俵で米を保管していたようです。

特徴的なのが、屋根の際などにはモルタルが使われていました。郷倉の指定素材だったそうなので、こちらも郷倉を見分けるのに役立ちそうです。

床下の基礎

床下は乾燥とネズミ避けのためかモルタルで高床につくられています。年数が経ちモルタルも割れてきている部分が多くありましたが、モルタルの断面を観察してみると、現代みたいに砕石ではなく、河の玉石のようなものを使っていました。おそらく近くの河原から運んできたものかと思います。

鉄筋などは使っていないのか、鉄筋が錆びて膨張して割れてるような部分は見当たらず、よく見ると茶碗の破片なんかも骨材に混ざっていて、流通の乏しい時代に地域の資源をフル活用して建てられたのだろうと感じました。

今では西田中のお祭りなどの用具の保管に使われています。

かつては数多くあった恩賜郷蔵ですが、今でも地域の蔵として現存しているものもあるようです。今回の調査では、自然の厳しさに耐え農業の発展と天災への備えを行ってきた歴史の末に、今の我々の生活が成り立っていることを改めて意識することができました。

今後も泉西部地区に眠る謎のスポットをご紹介できればと思います!

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